眼を閉じて、生温い水の玉が幾重にも重なって透明な糸となっ て前身に絡みついてから体温で一瞬にして溶けてくるぶしを下る様子を感じる。一糸一糸の流れは優しく素肌の表面を舐めて表皮にこびりついた疲労の泥を拭い 去っていってくれる。ティエリアはその瞬間が好きだ。
徐々に煙って湯の温度が高くなる。自分の好きな、一般のシャワーよりぬるめで穏やかに曲がるプラスチックを少しだけ閉めて勢いを弱めた。柳のように首を垂 れる水で背中を流し、薄い色素が張り巡らされた肌に、同じ要素で構成された指が這い回った。 丁寧に揃った爪が水で光って反射する。反射した光は白い床を跳ね返って飛沫と、その中にある白い身体を淡く発光させていた。
ティエリアは自分の、肉の薄い身体を見下ろす。 彼はその、自分の薄っぺらい身体が好きではなかった。
女のように細い指は戦場ではただの枷にしかならない。均等の取れすぎた面は、粘ついた視線を集めるだ けだ。べたべたと馴れ馴れしいものは好きではない。
水を吸い取って額に張り付いたすみれ色の髪を払い除け、ティエリアは流れ続けるシャワーを止めた。 指は未だ顔の中にあった。その白魚は躊躇うように滑りの良い額を彷徨い、鼻梁に落ちる。薄く閉じた瞼に触れ、睫毛にたどり着いてその下にある眼窩を彼は思 い浮かべた。
もし、自分の身体に蝕む骨格が常人の男のそれと同じであったなら、この姿はない筈だ。 だから、彼は男の身体というものに憧れを抱くのだった。 自分にないものを埋め合わせようとするのは人間の常だ。彼の場合、自分の身体から催される嫌悪が、直接そのまま男の肉への憧れとそれによって齎されるエロ ティズムに昇華されたのである。 遺伝子レベルで壁は積み立てられ、彼は汗のにおい、濃い髭や隆々とした肉体などといった男らしさというものから隔離されたと理性では判っていても、本能の 欲求を抑える事はできない。彼の脳は烈しくそれらを求めた。
脳の命令は身体が受け取り、揺さぶり、そして、肉の飢えは快楽と言う形で吐き出される。
手は、 男の巌を撫ぜる。彼人は彼の女性的な指を躊躇いがちに取り、彼の眸の中で揺れる自分の顔を見つけ、それから我を無くすのだった。 その一種滑稽な寸劇を彼の一部は冷めて見つめ、ある一部は熱に浮かされ高揚し、その熱の誘惑はどうしようもなく甘美で、やがて彼を一個の獣へと落としてい く。崖から転げ落ちていく度に彼は益々自分の全てに絶望し、同時にあられもなくあげられる嬌声に理性の脆さと肉の欲を深めていく。
篭った熱はやがて温度を喪っていくが、彼の中で芽生えた熱は未だ身体の中で燻ったままであった。 再びシャワーの水栓を開けて強い水圧を被っても熱された石から温度は消えない。 こうした、突然発作のように起こる自分の身体の欲求に面倒を感じながらも、耐え難い疼きは彼の手を頸へ動かし、水滴の溜まった臍から下肢へと導いていく。
眸は未だ眠ったまま、彼はその暗闇の中に男の手を創造する。若く、血管の浮き出た甲。荒々しさと同時にたおやかな感性を有したそれが、彼の穢れを知 らぬような欲の象徴に触れる。躊躇いがちな目線が彼を捉え、手の中で赤く色づき始めたそれをゆっくりと上下する。
「はやく」と彼は呟いた。ああ、何故!何故、この手は想像と重ならないのか。
「…何か言ったか?」
隣から声がかけられティエリアはすっと息を潜めた。
ゆっくりと視界に光を入れる。三度、瞬きをして「何も」と返す。シャワーの音は存外彼の声を消してはくれなかったようだ。僅かな悔やみが胸を過ぎり、それ と同時に隣のスペースに居る無口な少年にしてはこのような干渉は珍しいことだということを発見した。
「何か用か?」
壁で隔てられた場所に居る少年の耳に届くように普段より少し大きめの声を出し、彼は舌打ちする。 こんなことを訊く必要もなければ、声を張り上げる必要もないのだ。肉の飢えが、常の彼から冷静さを少しずつ食い漁っていた。
「石鹸がない」
刹那の声は、その外見よりもずっと低い。そのことに初めて注意が行く。幼い見た目がそうさせるのかは判断できないが、彼の声はその姿と相乗すると不思議に 気にならないものだった。 しかし、単独で聴いてみればそれは一人の男の声と相違ない。
「だから?」
今まで、自分より幼い男にティエリアは関心を抱かなかった。幼さは肉体の発達の未熟さを顕すもので、未熟さは全て彼のコンプレックスと結びつく。
しかし、 どうだろうか。彼は自分の下肢を眺める。 そこは未だ興奮を冷ましてはいない。
「貸してくれないか」
心地の良い声。年相応にヒステリックに荒れる事も、どん底に沈む事もないその声が、その均衡が破られればどうなる?
「…取りに来い」
それはとても面白い試みだ。想像が上手く働かない事象を見ることも、自分の中に生まれた新たな芽生えも、この悪戯が解決してくれるような、そんな気さえす る。 そういった幼稚さは最初から切り捨てていた彼は、その思いつきに悪い笑顔を浮かべた。 一瞬静謐が落ちた後でざ、とカーテンを引く音が聞こえる。 彼にはそれが始まりの鐘に思えて益々面白い。刹那は彼の思考の端などはつゆも知らず、ためらいのない様子でティエリアの居るカーテンを引いた。白く靄のか かる視界の中、浅黒い肌をガス燈のように目印にしてティエリアは手を伸ばす。石鹸を受け取ろうと差し出された手首を捉えた。
「…放せ」
大きな眼が更に開いて丸くなる。少年の中に起こった感情は嫌悪よりも先に驚きであったようだ。
「駄目だ」
人に触れられるのを極端に嫌う少年が面白い。 何より、その手首。握り締めたそこは細く、しかし決して惰弱なだけではなくしなやかに指の圧力を返した。
「……笑うな」
愉悦に眼を三日月に細めたティエリアに刹那が睨みつける。こうした目線を中てられるのも初めてのことかもしれない。嫌だ、と謳うように囁いて、掴んだ腕を 自分の方へと引張った。刹那の眸にはっきりと困惑の色が浮かび上がる。 エラステースの天啓が降りる。ガニュメディスを愛するゼウスの嗜好をティエリアは理解した。
「、放せ」
ぐるりと手首に巻きついていた蒼白の一指一指が緩慢な動きで離れ、蛇のように狡猾な動きでそっと、仄かに褐色を帯びたてのひらを這って指の又にしな垂れ る。指が、触手のように絡んで刹那を弄ぶ。丹精な造りの白磁が、水に濡れて爬虫類の舌になったぞんざいに短く切られただけの爪をなぞり、味わい、指の腹を 舐った。
「…さわ、るな」
抵抗は弱弱しかった。それを良いことにティエリアは頭を垂れて捉えた指を咀嚼する。唇で一度軽く吸い、舌で包んで笑んだ双眸は幼い少年の動揺を見つめる。 歯とつめがぶつかった音が柔らかい音を奏でた。
「初めてか?」
静かな興奮を隠そうともしない声が刹那の耳朶に囁かれる。至近距離に吐き出された吐息に刹那は息を詰め、動揺した眸は伏せられる。睫毛が、熱気と汗に濡れ て東洋の漆器を思わせる色に煌き、その無意味な質問を黙殺した。どちらにせよ、ティエリアの意向は変わらない。
水分を多分に含んだ唇がようやく離れたころ、刹那は抵抗することも動揺することも止めてじっと目の前の正体を暴こうと眼を凝らしていた。情事には相応しく ない、とティエリアは少しだけ不機嫌になるが、それもいずれ消えるだろうと今までの統計から算出し、勝者の笑みが戻る。 「…あ」 濡れた薄黒い肌の細胞は細かく、触れれば生命の疼きを感じられるほど熱い。一つ一つの細胞が、燃えているようであった。 ティエリア、と刹那の唇がその名を紡ぐ。音のないそれは彼の精一杯の悲鳴であった。幼さしか感じられないその頸のなだらかな稜線を上体を屈めて唇で辿って いく。波打つ頚動脈に軽く歯を中ててその柔らかさを楽しんだ。戦慄く小さな指が、抵抗を訴えてティエリアの項に爪を立てる。それこそ、子猫のように無力な 反抗だった。 滑らかな胸の肉に淡く浮かぶ尖りの上を薄っぺらい舌が移動して、項に置かれた指の力が増してその先を白くした。
「…ぁ、へん…だ…」
「変じゃ、ないさ」
ぎゅう、と刹那の瞳が閉じられる。初な反応はただただティエリアの嗜虐心を満足させるだけであった。子どもの塔から陥落していく様子はひたすらに甘美だ。 アラバスタのような肌の色は今のこの原初の生命へのアレテーと震えるほど恋焦がれるあの快楽の逢瀬を期待して赤く色を帯び始めた。全身に這う地脈が歓喜 し、目の前の対象に牙を向いた。
「あまい…」 恍惚に毒された呟きが毀れ、屈みこんだ上体がぴたりと刹那の身体に寄り添った。肌同士がぶつかって水が蒸発するように弾けて空中に浮遊した。そしてそのま ま、欲望を吐き出そうと容を変えつつあるものを握りこんでティエリアは自分のものと合わせた。ぞくり、と彼の背中に電流が降りた。
「や、いや、だ…っ」
「…ぁ、…」
上下する手が速さを増す度にティエリアの中で理性の正体である糸がぶちりと千切れる。それをするのは暴力の隣人である性欲が成せる業であった。そして欲望 が膨らんでいく。嗜めるように添えられた薄闇の手は、いつの間にか波に溺れるようにして白いてのひらの壁に圧力を掛けて快楽の助力をしていた。ぐちゅり、 と二つの色が動けば淫靡な水音が生まれ、息は乱れる。
「…は、…あ、…あ、」
断続的に襲い掛かる戦慄に、ティエリアは頸を反らせてそれを享受した。幼い少年は自分の吐き出した白いものを芒洋とした双眸で見つめ、汚れが、と洩らす。 涙の浮いたそれは罪人の眸であった。 ティエリアは水が流れたまま転がっていたシャワーヘッドを取り、花に水をやるようにそこにかける。 こんなことは、なんでもないことなのだ。神にも文句を言う権利はない!
「…こうすれば判らない」
勢いの弱い水では全てを流すことは適わない。討ち捨てられた欲望の火種を、ティエリアの足が踏みつける。その欠片は踝へと跳ね返り、乳白色の泥はやがて肌 と混じって溶けた。













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