その少女と同じ電車の同じ車両に乗るのは決まって月曜、水 曜、金曜の三日間だったから、グラハムの出勤時間を大幅に変更するのも月曜、水曜、金曜の週三日になる。
彼女を最初に見たのは今から二ヶ月ほど前。まだ、夏の余韻が強く、濃い紺色の線がよく映える白いセーラーの生地が強い光りにきらきらと反射していたころ。
つまりそんなに前から彼はその少女を見ていた、だらしなく脚を開いて鏡を見つめたり、携帯電話を弄ったり、首を落として眠りこけたりしない姿を、その眼差 しで。
ガタガタと揺れる電車にアナウンスが響いて、次の駅の名を告げた。グラハムは窓の外に流れる風景を見るふりをして、ずっと本を読み続ける少女を観察した。
(さて、今日は何を読んでるのやら)
柔らかそうな黒髪が、ふわふわと空気を絡めて滑らかな肌に影を落としていた。赤茶の眸はずっと紙面を辿ってつれないが、その少女の対象に向けられる真剣な 眼差しは彼にとって好ましいものでもある。
汚れの一つも見当たらない濃紺のセーラーと、鮮やかな赤のマフラーが美しいコントラストだった。静かで、熱い。グラハムはそんな女性が好きだ、美しい椿の ような。
吊り革を握って立つ彼の前に座る少女からはそういう萌芽を感じられた。まだ幼さを残す手が、ぺらり頁をめくる。添えられたもう片方の手には、ゆるく金の栞 が指に挟められていて、車内が揺れるたびに眩しく彼の眼に残光を残した。
外の景色がす、と灰色のコンクリートに包まれて室内に薄闇が射したとき、少女は一度軽く瞬いてからぱたりと本を閉じる。窓を鏡にして見つめた細か過ぎる文 字を見れば生まれいづる悩みと書かれてあり、ああ、確かにとグラハムは肩を落とした。
もう少し、ロマンチックな本を読んでもらいたい。以前読んでいた武士道なんかよりは幾分かはマシかもしれないが。
身体に釣り合わないような大きな鞄のなかに文庫本をしまい込み、少女が立ち上がる。
ふわりと細い腿の上でスカートが舞う。ああ、この時間ももう終わり。 がたり、といつもより乱暴に電車は停止して、グラハムは小さな身体が傾いてこちらに寄り掛かることを少しだけ期待するが、少女は一つの動作の乱れもなくド アに向かって歩いていってしまう。
肩にかかったバッグすらグラハムにぶつけることなく。
本当に、つれない。 彼女が抜けていった狭いスペース。小さなそこには光の粒子が溢れてその静謐な余韻を残している。ふと、その輝きを一身に集める何かをグラハムは見つけた。 少女が消えた、その足元。両隣に座っていたサラリーマンはどちらも疲れて眠っていてその存在に気付かない。 グラハムは少し前屈みになってそれを摘んだ。 金色の糸が流れるようにして固められた栞。先程まで、少女が指の中で弄んでいたものだ。
そういえば、彼女が立ち上がったときに何かがきらりと光ったような気がした。あの大きな鞄の中から偶然に落ちたのだろうか。この手の中に、零れ落ちるよう に。
その想像は彼を微笑ませた。ああ、これはもしかしたら本当に重症かもしれない。 彼女の座っていた場所に身体を滑り込ませる。無理やりなそれに、隣で船を漕いでいたビジネスマンが空ろな様子で脇へと詰め、「すみません」と礼を言う。
手の中におしとやかに収まるそれを、さて、どう言って彼女に渡そうか? 明日、いやもしかしたら今日の放課後、電車に乗った彼女は文庫本を開きこれがないことに気付いて、鞄を開けて覗き込み、あの変わらない人形めいた顔を少し だけ曇らせる。
朝、あの電車で落としたのだろうかと空想する。自分の前に立っていた男を思い出す、もしかしたらあの人が拾ったのかもしれないと期待する。 美しい空想。グラハムの中の少女は本物より少しロマンチストだ。
ああそうだ、小説を渡そう。ツェルゲーネフでも、サガンでも。金の栞を挟んで。
彼女は一体どんな顔をするだろう。いつもの無表情で?それとも、少し困ったようにはにかんで? 人の流れが動き出す。窓の外には彼が勤める会社の細長いシルエットが朝の光を照り返している。 周りに合わせることなく、彼はそこに座ったままその光に手の中のきらめきをかざして笑う。
こうなったら、終電まで乗って戻ってこよう。
 どうせ時間はたっぷり余っているのだから。












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