ロックオンの選んで薄いピンクの水玉模様の包みを解いて、同 じく彼が朝からせっせと動き回って中身を詰め込んだ朱塗りの弁当箱の蓋をぱかりと開ければ、目の前にふ、と影が落ちて、箸を中空に構えたまま刹那はその影 の正体を見上げた。
「いただき!」
ひょい、と手が意外な速さで動いた手は、感情表現の乏しい彼女からロックオンが何とかリクエストを聞き出し、昨晩から下準備をして作ったごぼう入り和風ハ ンバーグに狙いを定めて伸びてくるが、刹那は同じく素早い動きで箸を交差させてその襲撃からおかずを守護する。僅かな拮抗の後、ならば、ともう片方の手が 弁当箱ごと掻っ攫おうと襲撃者はさらに攻撃の手を緩めないが、それは「ルイス!」と嗜めるような呼び声が撃退してくれる。
「ダメだよ、刹那のおかず減らしたら」
「だってぇ〜」
美味しそうなんだもん!とルイスは可愛らしく頬を膨らませ、恋人である沙慈にそう主張するが、そんな自己中心的な意見を沙慈が受け入れるはずもなく、ダ メったらダメと弱気ながらもそういらえを返した。
昼に行われるこの小さな戦争は飽きることなくある時から毎日のように繰り返され、今ではこの教室の日常の風景として周囲も認識していた。そしてその戦いが 終われば、沙慈が「一緒に食べていいかな?」と刹那に問いかけ、無言で肯く彼女の前にこの二人が腰掛けるのだった。
「でも、本当に美味しそうだよね。刹那のお兄さん、やっぱりお料理上手だなあ」
「……」
正確に言えばロックオンは刹那の兄でも何でもないのだが、話せば面倒なので適当に相槌をうって沙慈の弁当箱の中に蟹シュウマイを放り込んだ。 こうしなければ沙慈は嫌がる刹那を面白がってロックオンの話を止めてくれない。ルイスにはおかずを減らすなと怒るわりには矛盾した行為であるが、その辺の 自覚は欠如しているらしく、「ありがとう。ルイスも半分食べる?」と箸で半分に割って彼女に分けてやり、刹那の弁当箱には卵焼きをお裾分けする。
ごく自然なやり取りなのはこれがもう習慣化しているからだろう。この恋人であるはずの二人が、二人きりになれるチャンスを棒に振ってまで刹那を構い倒すと いうことも含めて。
初めの方こそ刹那だって無言で抵抗して見せたり、うっかりルイスにミートボールを奪われたりしていたのだが、そういったものはイレギュラーで混じる頻度に 減少してこうした安定したやり取りが続いている。刹那の愛想のなさは、時には相手を激怒させてしまう事も多々あるのだが、この二人は揃って気にするそぶり も見せず、大概一方的に喋りとおして刹那を人形よろしくおもちゃにするのだった。
「だから、刹那には明るい人がいいの!お笑い芸人みたいな〜」
「えー、それはないよ。刹那は子どもっぽい人より大人の人のほうがいいんじゃないかな?お世話してくれるような」
「まぁね。でも明るくないとダメよ!ただでさえ喋んないんだから、無理にでも喋るような環境にしなきゃ子どもが可哀そうだもの!」
ちなみに今の彼らの議題は『刹那の夫はどういう人がいいか』である。最初は『刹那の恋人はどんな人がいいか?』であり、本人の意思は介入しない議論は白熱 してここまで発展したのである。
ちなみに、二人の意見では恋人と夫は別物らしい。ただし自分達を除いて。
話の中心であるはずの刹那は既に弁当の大半を平らげて後のおかずはハンバーグを残すのみであった。そして食べながら、もう少し大きい弁当箱にしてもらおう かなどと考えている。増加しようと考えている昼ごはんの量と、朝の練習メニューから今までどおりのエネルギー循環が出来るだろうか、などと無表情で頭を働 かせ、今の筋トレ中心のメニューより、もう少し早い電車に乗ればアップも出来るから朝でも少しは本格的に走れるから問題ないな、という結論まで出して最後 の一口を食べ終わる。今日帰ったらロックオンに言おう。
「ごちそうさま」
「あ、はやーい」
お喋りに忙しい二人は刹那が食べるのよりずっと時間が掛かる。そんな二人を尻目に彼女は鞄から今読んでいる文庫本を取り出して栞に沿って頁を開こうとす る、があっさりと頁は流れていってしまって刹那は小首を傾げる。すぐに鞄を膝の上に引張り上げて覗き込むのだが金色のそれを見つけることは叶わない。
「……ない」
「ん?どうしたの?何かなくした?」
珍しく何か困っている様子の刹那に、二人は同時になに?なに?と頭を寄せてくる。どうしてこうやたらと反応がいいのだろうかと疑問に思うくらい、この二人 の刹那に対する興味は絶えない。寧ろ、初めの頃よりも刹那の嗜好や行動や生活などをずっと知りたがり、刹那でさえ無意識に向かっているものですら把握して 彼女を時々驚かせる。
「あれ?栞、ないんじゃない?」
「あ、ホントだ。それをなくしたの?」
問われたのでこくり、と小さく肯定する。刹那の表情は変化がないように思えるが、僅かに下に漂う視線は彼女の困惑を示している。それを、この二人が気付か ないはずも無く、かわいそうかわいそうと騒ぎ始めた。 きっと電車で落としたのだろう、と刹那は唇を噛んだ。
朝、電車で本を読む習慣がある。栞がないこと自体は少し面倒だが代わりを使えばいいし、いざとなれば無くてもだいたい読んだ頁を捜す事で解決する。だが問 題は少し面倒だった。
「怒られる…」
読書を刹那に勧めたのはアレルヤだった。刹那の、あまりの口の少なさを心配したのが始まりだったのだが、意外と彼女が読書家だと知ると自分の本棚からお気 に入りやら必須の文学小説やらを刹那に貸し出すようになっていた。
初めは面倒に思っていた刹那も本を読んでいればあまり人が話しかけてこなくなることを発見し、また朝の暇な時間を潰せるという点から積極的にアレルヤから 本を借りていた。彼女の語彙が増えたか、という根本問題は未解決のままだが。
しかし今の問題はあの栞にある。あれが、本来の本の持ち主のものであれば何の問題も無いのだが、実はあの栞だけはティエリアのものなのだ。 アレルヤの本がティエリアに渡り、そのまま栞が挟まった状態で刹那の元にやってきた。それまでは知らずに使っていてたが、その返却の催促を(あの冷たい眼 差しで!)昨晩にされたばかりだったのに。
「もしかして、その栞ってお姉さんの?」
鋭い沙慈の質問に小さく肯けば、「わぁあ、怖いなあ」と彼は大袈裟に身を震わせた。隣人である沙慈はティエリアとも勿論顔馴染みである。ルイスばかりは知 らずに「ええー、そんなに怖いの?まぁ美人が怒ったら怖いって言うけど」とのたまいつつ呑気にウインナーを咥えている。
沙慈は、知らないっていいよな呑気で、と溜息を吐く。あのひと、本当に怖いんだからな!
「…いろいろ煩い」
「心配なんじゃない?色々と」
表情を曇らせたまま呟く刹那に、二人は顔を見合わせてそう口を揃える。ルイスは呑気に、沙慈は割と真剣に。しかし刹那は予想通り意味が判らないらしく、頭 の上に疑問符を浮かべている。
「なにが」
「悪い虫がつかないかって」
「虫…?」
虫は、色々いるが悪いという形容詞が付く位だから相当気持ち悪い、もしくは有害な種類なのだろう。小蠅でさえあの鉄面皮のまま殺虫剤で駆除するティエリア の潔癖を刹那は知っているので、何となく思ってそうかもしれない、と一応肯いた――当たり前だが刹那の見解はまるで正しくない。
勘違いをしたまま納得してしまった刹那を横目に溜息を吐いて、ルイスがそうだ、と手を叩いた。
「じゃあさ、新しく栞買っちゃえば?確かあれ、駅前の本屋に売ってるわよ」
刹那の私物を一々チェックするのはルイスの趣味であり、刹那は普段はその行為に煩わしさしか感じないのだが、今回ばかりはその悪趣味が役立った。どんなに 下らないようなものも無駄なものは世の中にないらしいと、その恩恵に預かるはずの刹那は感じた。
「よし、じゃあ帰りに本屋に寄ろう!刹那は今日は部活は――ああ、大会前だから自主練?」
「それじゃあ私たち、駅前でデートしてからまた学校来るから。何時に切り上げるの?」
「……7時」
いつの間にかスケジュールが組まれているのことに気付いたが、一人で栞を買うには本屋に行ってある程度捜さなければならないし、もしかしたらルイスが前に 話していた大きなハンバーガーを驕ってくれるかもしれない、とちょっと素敵な予感につられて黙って流される事にする。
もしそうなら、栞を落としてしまっても、悪い事ばかり起きるとは限らないのだな、と刹那はちょっとだけ幸せになって空のお弁当箱を片付け始めた。












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