潮が行ったりきたりと砂の表面からその欠片を穏やかに削るた びに、ロックオンの眸はその連れ去られていく小さな粒を少しでも拾おうと薄闇を内包する波の塊を凝視していた。
時間が緩やかに命を削っていく様子と重ね合わせてみたりすれば、そんな後ろ向きな空想が生み出すものは自己嫌悪と漠然とした不安、そしてそういった悪いも のの最も根源にある黒く粘り気の持った影のような残滓しかない。溜息を吐けば、それがまた小さく腹を膨らませたような気がする。近くを跳ねていた彼の相棒 は、動かない彼に退屈してしまったらしくて流されるかどうかのギリギリの線を跳ねながら遠くへ行ってしまった。
優秀なその人工知能は、ロックオンが自分を置いてどこかに消えていったりしないということをちゃんと知っている。 膝を抱えて、彼は自分の掌を見た。
記憶の中にある父親の掌の大きさを越したのはいつだっただろうか。どんなに忙しくても出勤前に頭を撫でることをやめなかった、優しい掌があった。眼を細め て本当に幸せそうに笑うものだから、嫌だなんて思う暇もなかった。 さく、さくと砂浜を踏みしめる音が背後から聞こえて、ぼんやりと輪郭を喪いつつあった指と空気の境界線が眼を醒ます。その目覚ましになった音を振り返れば 刹那が直立に立っていて真直ぐにロックオンのことを見て口を開いた。
「もうすぐ、整備が終わる」
「……ああ」
あの柔らかい頬を殴ったのはこの拳だったのに、一回り小さな少年は先程の事などまるでなかったかのように、頬の赤みなどただの幻だと言うようにあまりにも いつも通りに平然としていて、まるでこの海のように静かに凪いでいた。 悲しくて、ただ痛かった気持ち、それが今は潮風に当てられて罪悪感へと風化してしまった。呻くように肯いて、ロックオンは眼を伏せ、背中を向ける。
慣れない、ちょっと乱暴な言葉で脅しても少年は何も言わなかった。泣いて自分の悲劇を訴えるより、この子どもはいつも唇をかみ締めることさえせずに無表情 を繕って自分の傷すら見えないようにしてしまう。傷が無いわけではないのに、なかったかのように振舞う。
こんな小さな身体で、壮絶な過去の記憶にも眼をそらさずに自分を罰している。贖罪に、生を投げ出している。ずっと痛みを抱えたまま。
「…刹那?」
ブレーカーが落ちたように沈黙して、また暗好色の海に視線を戻してしまったロックオンの隣に刹那が座り込んだ。手をちょっと伸ばせば届くような距離。
どうした?と理由を尋ねることも、珍しいな、と驚いて見せることも、寂しかったのか?とからかうことも出来なかった。唐突な行動は珍しいことでは無いが、 人の体温にすりよるような、子どもがする当たり前のことを要求しない彼は何より容易く触られる事が苦手で、他人と一定の距離を取ることが常であった――そ してロックオンは他人でいたくなくて何度も抵抗を掻い潜ってその身体を捕まえた。 暗い水彩に支配されていた空は、水平線から水で薄めたように淡く光を放った。真剣な朱の眸に誘われるようにしてロックオンはそれに視線を固定した。 何も見えない先で、あの眩しい光の生まれる底で、人が死んでいるのだ。手を繋いで微笑んでいた恋人たちも、仕事に追われているサラリーマンも、急いで母親 の元へと帰ろうとする子どもも総て、巻き添えにして。
「嫌だな…人が死ぬのは」
嫌だ、と。悲しいかなしい、そう言いながら、被害者の眸をして顔を手で覆いながら、一番手を赤くしているのは自分自身なのだ。矛盾した、愚かな行為だとい うことは判りすぎる位判っているのに、ただハンカチを浪費するだけではいられなかった。何かしなければ、そう思ったから今こうして世界を巻き添えにしてい る。 もしかしたら、きっと世界は平和になるよと祈るように呟きながら、それを言い訳にしてるだけじゃないか? 自分で決めたはずなのに、未だに自信を持てないんだ。ずっとその疑いは消えることの無い火のようにロックオンの中で燻ぶっている。 じっと、刹那は動かない。ロックオンの心の葛藤に耳を傾けているような様子で。
「俺は、ずっと…前から」
ともすれば潮風に吹き消されてしまいそうなほどの小さな声を、辛うじてロックオンの聡い耳が拾い上げた。その儚い唇が次に告げるであろう茨の棘を持った言 葉に気がついて、は、とロックオンは鋭く息を呑んだ。
「刹那、違うだろ」
強く言った言葉に、刹那は予想していたのかゆるりと首を振るだけだ。ロックオンの寄せる優しさはいつも刹那にとって見え透いて温かいものしかなかったから その反応を予測するのは真っ暗な空を見て雨が降る様子を想像するのと同じくらい容易なことだったのかもしれない。 今一番、過去の象徴と言えるような存在に対峙して傷付いているのは刹那なのだ。
赤い髪のおとこ。それを忘れて、どうして自分だけ悲しい顔をして無言でこの子どもを責めるような真似をしたのだろう。無意識に放たれた銃弾が、一番身体の 中心を抉ると言うのに。
「どう繕っても事実は変わらない。俺は――」
「刹那!」
肩を掴んで怒気を含ませて叫ぶ。平気な顔をしていくらでも手首を切ろうとするようなその言葉を止めたかった。傷の痛みに麻痺してしまった少年が哀れだっ た。 びくり、と柔らかそうな咽が痙攣して、ぐらりと上体が傾いたと思えば、次の瞬間には砂浜に二人で倒れこむ。乾いた砂塵が舞い上がり、自分より随分大きなも のに下敷きにされた刹那は短くうめき声を上げた。
「わ、悪い!」
慌てた様子で謝りながら起こし、僅かに顔を歪めた少年をも一緒に起こしてやる。この小さなクッションのお陰でロックオンは口の中に砂が混じるくらいの被害 で収まったが、刹那は倒れこむ衝撃を受けた上に全身砂塗れになってしまった。ロックオンは情けなく「すまん」と平謝りを繰り返しながら、無表情に砂を払う 刹那の、柔らかな髪の毛にまぎれた砂を取り除いてやる事しかできない。
全て綺麗にしてやりたいと思えば思うほど、癖のある黒髪は隠れん坊を楽しむ子どものようにその中に砂の粒を隠してしまう。そうすれば追いかける鬼はムキに なってそれを取ろうと躍起になり、刹那の髪の毛は癖毛という言葉では補えないほどぐしゃぐしゃになってしまい、ロックオンはまた慌てて謝る、という繰り返 しを行っていた。あまりの情けなさにセンチメンタルな空気は何所へやら、少年もされるがままその不器用な手を享受している。 ようやくロックオンが満足した頃には次は髪を元に戻す事を始めた。髪を撫で、丸い頭蓋に触れて押し付ける。くるりと円を描く髪の先に指を絡ませる。 体温を分けてやりたい。この小さな子どもに。 この少年の頭を撫でているとどうしてもそんな欲求に駆られてしまう。あまりに自分勝手な想い、一方的な押し付けであっても、そう思わずにはいられなかっ た。
「…お前は、いい子だな」
目を細め、思わず呟いた記憶の中へそっと閉まっておいた言葉は、じっと身を固めていた刹那にしっかり届いたようだった。大きな眸が、僅かだが見開いてロッ クオンを凝視し、その後に気まずそうに逸らされる。刹那の常にない様子に気付いた青年はどうした?と問うように首を傾げるのだが、見えないふりをする少年 は当然ながらそれを無視する。しかし普段からそんな可愛くない態度に慣れているロックオンは先程自分が整えた髪の毛を引張ってみたり額を小突いてみたりと しつこく、逸らされた目がしっかりとロックオンを捉えるまでそれは続く。
「…変だ」
ようやく口にされた言葉はどうにも内容を得ないもので、「へん?俺が?」と自分に向けて指せばようやくこくりと肯かれる。刹那はもう離れたいという様子で 立ち上がろうとするのだが、ロックオンはそれを許さない。再び肩を掴んで今度は盛大に砂浜に押し付けた。確かに今日のロックオンはおかしいかもしれない が、どうして刹那がそれに動揺するのだろう?
「そっかぁ?うーん…酒飲んでるから、かな?」
わざと軽い調子でおどけてみせ、脇に放り投げられていた酒瓶を刹那の前にかざして振ってみせる。硝子の瓶の中でベージュが跳ねる。再び砂被りになってし まった刹那はなんとなく嫌そうな顔をして腰を引いた。絡み酒、という悪い風習はプトレマイオスで嫌なほど見ている。 ロックオンの口の端がいやらしく持ち上がったと、そう思った途端に「呑め!」という言葉。酒瓶の蓋くるりと回りながら宙を舞って、その口が閉じられていた 小さな唇に押し付けられた。
「…っ…ばか」
亜麻色の滴が赤く腫れた頬を濡らしている。だらしないぞー、と自分の悪行を棚上げにした大人は下から睨みつける双眸を見て声を上げて笑っている。 快活に笑う青年に頬を乱暴に拭われながら、彼が背負う生まれたての朝日が眩しいと言うように、少年の眸はそっと伏せられた。












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