潮風に乗って、やさしい陽気が掌のようなやわらかさで降り注 いでいる。大きな布に身体を包まれた刹那は、どうしようもなくやってくる眠気に重たい瞼を擦りたい衝動に駆られつつも頭部を右往左往する指先に神経を集中 させていた。その、整った節立って長い指は、ひたすらに刹那の神経に宿る獣を宥めるようにやさしく動くから、刹那はまた瞼を重たく感じてしまう。 「こら、寝るなよ」 微苦笑を含んで、その世話焼きが撫でていた髪を軽く引張る。動物の親が、子どもを宥めるように甘噛みするような仕種だった。
刹那はその、痛みというよりは 幾分甘すぎるその痛覚に細めていた目を僅かに開き、そして「眠い」と小さく呟く。
「…寝てる間に切ればいいだろ」
「俯いちまったら切りにくいの」
そんなものなのだろうか、と刹那は内心首を傾げるが、ちらり、と後ろを顧みた男が、意外に真剣な目をしているのを見つけてまた前を向きなおす。案外凝り性 なこの男のことだ。完璧にしないと気が済まないのだろう――そう結論付けて刹那は再び絶え間なく波と共にやってくる眠気と戦うことになる。そんな刹那の様 子にふ、とロックオンは笑って、「何か話してやろうか」と眸を輝かせた。
「お前、あんまり本とか読まないだろう。眠気覚ましに童話でも話してやろうか」
「…頼む」
童話、という言葉が引っかかるが、眠気が取り払われるのならその方がいい。たどたどしい肯定の声は、童話をせがむこのシチュエーションと相まって常より彼 を幼く見せる。ロックオンと言えば、自分で提案しておいてから刹那のいらえが以外だったのか、一瞬手に握った鋏を浮かせて間を空けた後、「了解」と笑っ た。
「んー…、じゃあ白雪姫の話な」
「しらゆきひめ?」
「白い雪みたいに肌が白いお姫さまの話だよ」
後ろを振り向いた刹那の頭を両手に挟んで戻し、ロックオンは宙に浮いていた鋏を、陽気を含んだ髪の中に差し入れる。目に這入りそうなほどに伸びてしまった 前髪を避けるその指先の白さに、刹那はその比喩の現物を見る。
「そのお姫様は、雪のように白い肌に黒檀のように黒い髪を持って生まれた。唇はばら色で、大層綺麗なお姫様だったわけだ」
そう言って、ロックオンは量の多い黒髪を指で摘む。お互いが密かに御伽噺の中にお互いを見ていた。
「しかし、白雪姫が7歳のとき、お妃さまが魔法の鏡に問うわけだ。『鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?』――お妃さまは当然、自分だと思ってたわけだ。だ が現実は、」
「白雪姫?」
「そう。鏡は正直に答えてしまった。それを妬んだお妃さまは、白雪姫を殺そうとする」
鋏が、黒檀の髪を切断していく。刹那は今更ながらに、刃物を充てられていることに気付いた。刹那にとって、刃物はいつも冷たいものだった。このようなまど ろみを連れて来るのが、このようにやさしくやわらかいものが、どうして人を傷付けよう?
「だが、白雪姫は逃がされた。森を彷徨っていた白雪姫は小人の家を見つけて、そのままそこで暮らすようになる」
ロックオンの手が、少しだけ乱暴に小さな頭を撫でた。その意図を空ろな意識の中でも察し、刹那はゆるく首を振って逃れた。ロックオンはその素気無い態度に も小さく笑って、それは暖かい銀色のようにどこまでも刹那を甘やかす。
「白雪姫が死んだと思ったお妃さまは、意気陽々にまた訊ねる。『鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?』また鏡は答える。『それは白雪姫です』とな。鏡に、幸 せそうに小人と暮らす白雪姫を見て、お妃さまは決めるわけだ。自分で殺しに行こう、とな」
嫉妬に狂った妃は、容姿の醜くなることも厭わずに老婆に変装して白雪姫に近付く。そして白雪姫は毒が塗られた林檎を食べてしまう。悲しみに暮れた小人達 は、その小さな身体で懸命に白雪姫を起こそうとするがどうやっても目覚めない。そしてせめても、と、美しい硝子の棺に白雪姫を寝かせ、花で飾り立てる。
「ガラスの棺に入れられた白雪姫を、ある国の王子が見つけた。そして王子様のキスで、白雪姫は目を覚ます。めでたし、めでたし」
物語はこれで終わり。赤く燃える靴のダンスも、哀れな妃の悲鳴もこの子どもに聞かせる必要はない。白雪姫が、もしかしたら持っていた黒が風に煽られて、砂 糖菓子のようにきらきらと光を反射する、その眩しさにロックオンは目を細めた。
「意外と早く終わっちまったなあ。…他にも何か聞きたいか?」
「……」
「おーい、…せつなー?」
耳を澄ませれば、静かな波の呼吸の中に小さな寝息を見つけてロックオンは嘆息を吐く。覗き込んだ寝顔は幼く、晒された余りの無防備にロックオンは頭を抱え たくなる。だから、寝るなって言ったのにな。そう一人ごちても海とカモメ以外に聞く耳を持つ者などおらず、一瞬の逡巡の後、握っていた鋏を投げ捨てたロッ クオンは、幸せそうに寝息を立てる薔薇色に、そっとキスを落とした。












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