光でできた蝶が、刹那の瞼に止まって目許から毀れた涙を吸い とって睫が震える。
本当に悲しくて出た涙ではないのに、その蝶を飼う男は心配そうに刹那を覗き込んだ。唇が案じて、偽りの名を呼んだ。(掠れて随分と聞こえにくかったけれど も)大丈夫、と首を振る。
涙など、出し方すら忘れていたのだ。この方がずっといい。
水分を喪う事は、死に近付き神から遠ざかる事だと言われていたので。そんな習性が、今も刹那の体総てに刻まれた紋様のように染み付いて離れない。
笑うことは体力を奪う。泣くことは命を奪う。ナイフを取れ、炎を掲げ、血を捧げよ。
耳にこびり付いた怒号は今だって少しも薄れない。そんなことは、あの引き金を引いたときにとっくに覚悟していた事だったのだけれど。
自分が加害者である事は誰よりも判っている。許されない事をしてきたのだ、そして今も同じことをきっと繰り返している。 神などいない。救いなど幻想だ。
しかしどんなにそうやって言葉で否定しても、心の底はそう簡単に肯いてくれない。耳を塞いで目を閉じて言う事を聞いてくれない。
そして胸が苦しくなるとひっそりと呟くのだ、その、名前を。
(「神さま」)
「…どうした、」
ロックオンが小さく訊ねる。その指を、刹那はゆっくりと掬い取って唇に寄せる。人を殺すことは同じなのに、刹那のナイフの傷痕が残るものとは全く違ってそ れは美しい。どうして、だろう。この人を貶めたのは何なのだろう。悲しみの渦が、彼の魂を引き寄せたのだろうか。死神が美しい魂を欲しがるように、吸血鬼 が強い血を欲するように、悲劇がこの白に惹かれたのだろうか。
…そんなことを考えていた。何でもない。この人を突き落としたのは自分だ。
自分の持つ信念だった。粘着質な、(愚かな、)あの土地に巣食う狂信が彼の全てを奪ったのだった。
「せつ…」
「ロックオン」
摘んだ指を、そっと首に充てる。自分の皮膚の下に確かに血が流れるのを、ロックオンの指から刹那は感じた。 生きている。生きて、しまった。生かされた、神 ガンダムに。 だからこそ生きて、償わなければいけない。生きて、世界を変えなくては。空っぽな気持ちを、この、自分には何もないという絶望の連鎖を止めなくてはいけな い。 瞼の裏に死体が転がるのをもう見たくなどないのだ。
何も与えられなかった子供たちの死体が、どんどん刹那の心の砂浜に押し寄せて、乾いた眸が刹那を見上げる。
何故お前だけ生きている、と。
生かされたのにはきっと意味があるのだ。それを全うしなくてはならない。
「…殺せ」
「は、…」
「俺は、お前が殺せ」
多分、それでやっと満たされる。何もなかった、喪った全てが還ってくるような、そんな愚かな(優しい)幻想に浸れる気がする。涙の流し方も、笑い方も、 きっと思い出して、…きっと、赦される。
「馬鹿なこと、言うなよ…」
「冗談なんかじゃない」
「…そうだよな。お前は、冗談なんか言う奴じゃないよな」
緑いろが、じっと刹那に注がれる。あの日、刹那の魂を泥の中から掬い取った光の色にそれは似ている。それが、苦しそうに細められるものだから、刹那はその 理由を探すのだけれど、それはいつも見当たらない。ロックオンが刹那に向ける色は、優しくて、そして時々こういった苦しそうな(救いを求めるような)もの で、刹那を困惑させるのだ。
「…俺は…、お前を殺せないよ」
「…なぜ」
「判らないか?」
――判らない。涙が、その緑を覆って美しい膜を張った。 何故、お前が泣く?やがて溢れ出し頬に落ちるその水の由来を、刹那はベッドとロックオンの腕の狭間でずっと考え続ける。












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