「今日はロックオンの部屋に行ったら駄目だよ」
まだ閉じようとする眠い瞼を擦りながら自分の寝床から出てきた刹那が最初にかけられた言葉だった。 瞬きをしようとする、その仕種さえも億劫で、刹那は欲求のままにふぁ、と欠伸をした。
そしてようやく目線を上げれば、そこにある眸がじっと彼を注視している。 首を傾げれば、アレルヤは聞いていた?と首を傾げ返し、刹那はもう少しだけ角度を足さなければいけない。肩についてしまいそうだ。つまり眠気が邪魔して内 容をよく把握できなかった(顔を洗いたいな、とも考えていたので)のだが、ともすれば折れてしまいそうな首に慌てたのはアレルヤの方で、急いで刹那の首を 元の通りに戻し、「今日はロックオンのところに行ったら駄目だよ」と同じ台詞を繰り返す。
頭を両手で押さえられているので、刹那は首を傾げることが叶わずに、大きな目でその言葉の意図を問うた。
「具合が悪いからね。ゆっくり休養させてあげよう?」
別に、特別にロックオンに懐いた覚えは刹那にはなかった。 寧ろ、懐かれているのは刹那の方で、大抵の会話はロックオンが話題を提供し、刹那はそれに頷くだけだのに。特別に用事がない限り、例えば、ミッションに関 することだったり(押し付けるように)貸された本を返す用事がない限り、刹那からロックオンに近付くことはなかった。
だというのに、その日は会う人会う人に「刹那、今日はロックオンの具合が良くないから部屋に行くなよ」とか、「ロックオン、具合が悪いのよ。だからそっと してあげてね」とか「今日はロックオンの部屋行くなよ。具合悪いから」とか言われて、刹那は最初こそ素直に頷いていたものの、言われるたびに彼の中でいら つきの火が燻りはじめる。
いつもいつも構ってくるのはロックオンの方なのに、これではまるで刹那がロックオンがいないと寂しいように周囲に思われているようだ。いや、もう思われて いるのか。刹那は少し溜息を吐きたくなった。しかし溜息を吐けば吐いたでロックオンを彷彿とさせるその仕種で周囲の誤解がまた深まりそうで刹那は小さく下 唇を噛む。
「おい」
「…ティエリア・アーデ」
視線を上げれば、桃色のカーデガンを着た少年が傍らに立っている。気配を消していたのか、趣味が悪い、と刹那は僅かに眉を顰めた。その仕種よりももっと彼 の心情を如実に物語る警戒して立った耳を見てティエリアは少しだけバツが悪そうに目線を落とした後、一度長い尾で床を叩いてから、「今日は、」と言いかけ た。
しかしその言葉は刹那の口から洩れた(多分、無意識に)溜息で空気に溶けるのをやめた。
「ロックオンの部屋に行くな」
「――そうだ。…他の奴らから聞いたか」
「散々」
「判ってるなら、いい」
もう用は済んだ、とばかりにその場を立ち去る刹那にティエリアは何か言いた気にその背中に指先を伸ばす、が結局やめてしまった。 代わりに、先ほどから床を叩きつける尾を握り締めて、本当に判ってるのか、と小さく訊ねた。その問に答える背中は、振り返る事はないのだけれど。



近付くな、と言われたら、近付いてみたくなるのが人間の心理ではないだろうか。
例えばパンドラの箱に手を伸ばしたり、林檎を食べたりする話が嘲笑を誘いながらも人々に伝播されるのは少なからずそういった感情に同調できるからではない だろうか?
それに、と刹那は心の中で逃げるように呟く。そんなに具合が悪いのだったら、誰かが看病をしてやらないと駄目なんじゃないか、と。
病人の看病くらいできる。刹那は戦場で育ってきた。体調を悪くした仲間の吐瀉物を片付けた事もどろどろにした流動食を無理矢理口に流し込ませたことだって ある。
いつまでもあまり成長しないてのひらにタオル、水と剥いた不恰好な林檎の入ったタッパーを持って刹那は白い扉を見た。一度肺を空にしてから、小さく呟い た。
「入る」
今日ずっと留守番していた扉が開く。しん、と静まった部屋に一度びくりと耳を震わせて、警戒したそれがじっと天の方向に立って室内の様子を伺う。
「…ロックオン?」
「……刹那か…?」
三角の耳が声を拾って震える。電燈が静まった部屋は暗く、丸くなった瞳孔が暗闇の中で白い手がぎこちなく動くのを見つけた。それが何かの器械、恐らく、リ モートコントローラを操作して、一度瞬いた後に白い部屋が作られた。白いシーツ。埋まる茶色の毛の束に、それと同じ色が密になった耳が力なく横たわってい る。
ゆっくりと近付いた刹那に呼応して、緑いろが布と茶色の隙間から覗いた。それが熱をもって潤んでいるのを見つけ、刹那はそれを覗き込んだ。
「具合、悪いのか」
「…今日は俺の部屋に来るなって言われなかったか?」
「…別に」
俯いた刹那の頬に、小さい溜息がかかる。あっさりと見抜かれたことに僅かに動揺しながら、刹那は視線を上げた。細い(そこに手袋はなかった)指が伸びて、 刹那の垂れた耳に触れる。指の持つ熱に肩が揺れ、「ロックオン」とその名前を呼んだ。
「…どうした」
「熱が、」
「ああ」
ロックオンのてのひらがそっと刹那の頬を包む。いつもより熱いそれに、刹那の眉が寄る。ロックオンはすこし微笑んで、額をそこに押し当てた。
「あつい…」
「うん」
「ロックオン…?」
先程からどこか様子のおかしい名前を呼んだ。いつの間にかシーツから這い出して、刹那の身体ぜんぶを包み込むように抱き込む青年の身体は熱く、刹那までも がその熱に浮かされるように身体が火照ってくる。その熱が、ぼんやりとした視界に、蛍光灯の白い光が乱反射して不思議な光景を作る。
「何か、変…だ」
ロックオンの指が、刹那の髪を掬う。絡め、弱く引張って、震える耳にロックオンの唇が息を吹きかけて、柔らかく食んだ。その耳が、くるる、と喉の鳴る音を 聞いて、刹那はようやく事態を悟った。
「お前まさか、」
「刹那、ごめん」
ざらりとした舌が刹那の頬を舐める。その感触に震えながらも、力の抜けた刹那の身体は理性の言う事など聞くわけもなく、ただ真っ白な靄にかかった聴覚が発 情の熱に寄った青年の鳴き声を聞き分けてまた落ちていくのだった。












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