突然に家に尋ねて来たアレルヤを、瞬き一つの間で許容した刹 那は今キッチンに立っている。
彼の家にはテレビやラジオというような気を紛らわせる娯楽というものが一切ないので、何ら代わり映えのしない暗好色の窓をぼんやりと眺めていたアレルヤは 沈黙し、ともすれば底に沈んでいきそうになる空気をなんとか浮上させようと一応奨められた(「座ってろ」、と)ベッドから腰を上げるのだけれど、後ろめた さが勝って再びベッドに腰掛けることになる。こういったとき、アレルヤは自分のどうも踏ん切りのつかない性格を呪うのだけれど、かと言って今更あの背中を 追いかけて手伝いを申し出るには些かタイミングを逸してしまったし、そのちぐはぐに一切合財目を瞑って実際に手伝いをしてみても自分が役に立つか自信など なく、そもそもあの子どもはキッチンで何をしているのだろうかとも心配にもなって頭の中はぐるぐると落ち着かないのだった。
こんなに騒ぎ立てれば(常人なら頭の中くらい好きにさせてくれと嘆くだろうが)彼には同居人がいるので、配慮に欠けた頭の運動は迷惑であった。 だから、「あ」と小さな声を上げて彼はシナプスの動きを停止させたのだけれど、彼の用意した沈黙に還ってくる文句はなかった。
彼の大事な片割れは今はどこかに去っているらしい。思うに、彼にとってこの昼間の明るすぎる光は月光なのではないだろうか。思わず瞼を閉じたくなるよう な、目を擦りたくなるような、そんな眠りを誘うものなのではないだろうか? 眠気が、彼の神経をピリピリさせて、少し、彼を乱暴にさせてしまうのではいか。
アレルヤは時々そう考える。その時々は、アレルヤが本当に一人のとき、ハレルヤが誰かを傷付けたときで、アレルヤはどうにかして彼が他のひとに爪を立てて しまわないようにする術を考えるので、結局は彼の暇はハレルヤに費やされる事になるのだった。
「アレルヤ」
「はいっ、」
小さな、己の名を呼ぶ声に色あせた鈍色の視界が光彩を放つ。
唐突の現実への召還に、アレルヤの肩が揺れた。 妙な返事が毀れ、にわかに頬が熱くなる。わざわざ呼びに着てくれた彼に何か言い訳をしようとするも、刹那は自分で呼んだにも係らず大した興味のないような 素振りでまたキッチンの方へ向かっていくので、それも叶わず、ただ小さくその熱を吐き出す為に吐息を洩らす。そして、座れ、というように無造作に部屋の真 ん中に放置された座布団に腰を落として、改めて刹那の部屋全容を眺めた。 想像は出来たが、生活に必要なもの以外は徹底的に置かない、というような部屋に自分が座るこの布綿は少し似合わない、とアレルヤは笑う。似合わないが、悪 くはない齟齬なので彼は少し微笑みながら白い天井を見上げ、この部屋の主の夜の視界と重ねた。
鼻をすん、と鳴らすと刹那の纏う温かい匂い(やわらかい木陰の匂いのような)を追いかけて温められた牛乳のそれが香った。驚いて振り向けば、次にはピピピ ピ、と高い電子音が鳴って、棒立ちになってそれを待ち構えていた刹那はがぱ、と蓋を開ける。やさしいミルクの香りが一変して強い香辛料が空気を侵略して、 アレルヤは浮かべていた静かな笑みを引っ込めて目を瞬かせた。
「待たせた」
「うん…」
刹那が、大きめの器を二つ持ってくる。トレイというものは流石にないらしく、先程電子レンジで温まったものを取りに往復する間にアレルヤはじ、とその器に 注がれたものを見た。白い、とろみのあるスープ、その中に白身魚の肉やらにんじんやじゃがいもやらが浮かんでいる。
…刹那が作ったのだろうか。アレルヤは 驚いてその白からずっと目を離せないのだけれど、静かな足音に顔だけ上げた。目は未だ離せないでいる。そんな彼に、近付いて腰を下ろした刹那は(身軽だっ た)ぼんやりと未だに吾を喪っているアレルヤに「助かった」と言った。
「え?」
「作りすぎたから、一人じゃ食べれなかった」
紙の擦れる音がするから、ようやく視線をその白から切り離せば先程に一度漂った香りがまた強くなって、アレルヤは目を丸くして次はその袋を凝視した。それ には、よく街角で見かけるハンバーガーチェーンのロゴが書かれており、それを問うように刹那を見れば「温めたから大丈夫だ」と見当違いのことを言う。
「そうじゃなくて、…凄い組み合わせだね」
「別に、普通だ」
静かに笑ったアレルヤに刹那は小さく俯いて、おや、とアレルヤは首を傾げる。少し拗ねるような仕種だったから、その珍しさにアレルヤは不謹慎だが嬉しく なって、また微笑んでしまい不審な目で見られることになる。そうしながらも、刹那は袋の中からハンバーガーを一つ取り出してアレルヤに渡す。
「…これ、」
「ありがとう」
湿ったような温かみがてのひらのなかに滑り込む。包装を取れば、恐らく一番シンプルなハンバーガーが出てきて、刹那は同じものを隣でもくもくと咀嚼してい る。…これは、刹那のものではないのだろうか。
雨宿りをさせて欲しい、という見え透いた嘘をあっさりと飲み込んでくれるまでは良かったが、こうして食料を 取り上げるつもりは全然なかったのだ。ただ少し望んでみたかったのだ、特別な日を。 どうしよう、と視線を彷徨わせてまたシチューに目を戻す。白い海は答えも赤いリボンもくれない。そうしていれば程なくしてスプーンがその中に放り込まれ る。横を見れば、刹那が無表情でシチューを啜っている。
「…ありがとう」
はにかんで礼を言うアレルヤを、刹那がじ、と見た。小さな口がもぐもぐと動いていて、それが止まった後に「食べないのか」と問うた。
「うん、食べるけど…」
「嫌いなものでもあるのか」
「え?」
予想外の言葉に、アレルヤが顔を上げる。刹那はまだアレルヤを見ていて、その真剣な眸は彼を怯ませる。
「まぁ…ピクルスは、あんまり」
小さな緑いろがハンバーガーの中に入っている。そう言えば、その味はあんまり好きじゃないなと思い出して刹那を見返せば、刹那は再びハンバーガーをかじり 始めるので、お腹を空かせているのではないか、とアレルヤは手の中のハンバーガーを刹那に差し出した。
「刹那が食べていいよ。僕、あんまりお腹空いてないから」
刹那の手が落ちる。口の動きが止まり、「ダメだ」と子どもは首を振った。
「え?」
なんで、と問おうとしたアレルヤを赤い眸が見た。少し厳しい色だ。戸惑うアレルヤに刹那は続ける。
「好き嫌いしてると大きくなれない」
聞き分けのない子どもを叱るような口調で言うものだから、アレルヤはその予想外の言葉にまた目を丸くして、その後「ごめん」と愉快そうに笑う。ふふ、とく すぐられるように溢れる笑いは、先程の、漂うような笑みとは全く性質は違って、そのよく判らない反応は刹那を不思議そうな顔にさせたのだが。
「…?」
「いや…来て、良かったなと思って」
これ貰うね、ともう湯気の薄くなり始めたシチューを掬って口に入れる。牛乳の入りすぎたそれはアレルヤにとっては随分と薄味で物足りなかったのだけれど、 アレルヤは「ありがとう」と微笑んで刹那の頭をそっと撫でた。












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