01

 知らないことがたくさんある。
 小さい頃は些細なこと、例えば雲がゆるりと流れていくのだったり、ビー玉がどうしてこんなに綺麗に丸いのに甘くないのかとか、そんな不思議で溢れていて、その何もかもを知りたくなったのに、今はどうして平気に面倒などと言うのだろうと、ライル・ディランディは時々考えていた。そういうことを思ったとき、ああ、俺は大人になったのだと彼は自分を納得させるのだけれど、実のところそれは、ただ自分の感覚――細胞の精度とか、そういったものが、ゆっくりと色褪せていって鈍くなっているだけではないのかと、漠然とした不安が彼のうちを占めるのだ。
 そして、彼の兄はいつまでも子供のままだった。ずっと、鮮やかに。その色の残像は彼の虹彩の上をあの日のまま、ずっとちらついている。やさしい表皮の色、頭部を包む鳶色、深い、緑とも青ともつかぬ眸の色。陽を透かしてそれは、それは美しい円を描くのだ。
 しかし、それは何処へ行ったのか。その行方を彼は知らない。何を見たのかも、何を見たかったのかも。蒼穹を仰ぐその眸の底の色など、知る由もない。
 何も知らないまま、大人のまま、そして彼はロックオン・ストラトスとなった。それが良いことなのか悪いことなのか、真理に触れる部分など誰も答えてはくれない。
 ただ、微笑む兄の残像が、そっと彼の頭上を囲っているのを、彼は見つめる。

 そんな幻想が、ふと走馬灯のように過ぎったのは、閉鎖された空間の暗さか、それとも擬似体験とは言え、強烈なほど鮮やかなピンクの光線がこの機体を貫いたからであろうか。ロックオンは、けたたましく鳴り響くアラートに眉を顰め、コクピットの中から外へ這い出す。ヘルメットを取り、パイロットスーツの手頸のところで額 に張り付いた前髪を払えば、それに覆われた瞼の奥に未だに残る光雲が煩わしく、小さな溜息を彼は零した。彼の睨む視線の先には赤い文字が忙しなく点滅している。
「――79パーセントか」
 確認するような呟きに、「下手っぴ、下手っぴ」と騒ぐ声がして苦笑した。そう言えば、もう一人ではないのだったと改めて感じ、そのオレンジの球が弾く光の玉を、そっと視線で追う。そして、その白が描く軌跡の先に一人の影を彼は見つけ、目を瞬かせた。彼にとっては、意外な人物だったのだ。
「よ。あんたも、訓練?」
 気さくな様子で片手を上げた彼を、静かな目が見返す。
 刹那・F・セイエイ。彼の同僚であり、ソレスタルビーイングの現リーダー。恐らく年下。寡黙な男。それくらいの情報しか、ロックオンは知らない。
「そんなところだ」
 返る言葉はいつも素っ気ないものだった。最初はあまりの無愛想に面を食らったものだと、ロックオンは思い出して苦笑いした。そして、その無愛想で寡黙な男が、案外気を使うのだということに気付くのに、さして時間はかからなかった。言葉なく差し出される珈琲を受け取り、ロックオンは苦笑を次は微笑みに変えた。
「サンキュウ。気が利くんだな」
 柔らかく三日月を描く、その視線を避けるように刹那は顔を逸らした。それは赤く点滅を続ける文字に向いて、逡巡するように眸は動きを止め、それはまた見較べるようにロックオンへと帰った。あからさまな視線を受け、ロックオンはむ、と口を尖らす。
「低くて悪かったな」
「そうとは言っていない」
「これでもちょっとはマシになったんだぞ」
まるきり子供の言い草に「知っている」と刹那は肯く。
「訓練の結果は、閲覧させて貰っている」
確かに、マイスターのミッションの報告書、身体情報と言ったものは他の者でも閲覧は可能である。情報の共有はミッションの効率を上げるためにも、必要なことなのだとティエリア・アーデはロックオンの数値の変化に眉を顰めながら言ったのを思い出し、ロックオンは肩を竦める。
「……そーかい」
「下手くそ、下手くそ」
「こら、ハロ!」
 ぴょんと空に跳ねたハロを、ロックオンが掌で叩く。ああ、と高い声を上げて低重力の空間を流れ、壁にぶつかり跳ね返ってくるそれを、刹那は小さく笑ってキャッチした。
「俺よりは、上達が早い」
 そう言い、返されたハロをロックオンはじ、と見下ろす。もう用はないとばかりに00ガンダムに向かっていく薄い背中に声をかけた。
「もしかして、兄さんが訓練を見てくれたりしたのか?」
 歩みは止まらない。それでも、ロックオンの眸は自分の言が的を射ているということを確信するように、挑発的ですらあった。反応のない刹那を置いて、ぱた、とハロの耳が動く。
「仲良し!仲良し!」
「ん?」
「ロックオン、刹那と、仲良し!」
「……へえ?」
 無表情の背中は小さく息を吐いて弛緩した。わざと聞こえるように言うロックオンに、刹那はようやく振り返る。濃い影に囲まれた視線は、赤とも黒とも言い難く、その曖昧さ――不気味とも言えるその色合いは、無性に不安を掻きたてられるようで、出会って以来ロックオンは苦手としていた。
「なぜ」
「……別に。あんたが来るのなんて珍しいから、ちょっと話してみたいと思っただけだけど……」
「けど?」
「俺とも、仲良くしたいのか? あんた」
 ぱちり、と刹那は瞬く。一瞬、間が空く。それは投げられた言葉の意味を理解しようとするようであった。そして、呆然としたような顔から一転、続こうとする言葉を遮るように、「お前が望むなら」と言う。ロックオンは口を閉ざした。
「……何だよ、それ」
それだけを残して遠ざかる背中に、ロックオンの声は震える。それ以上の言葉を飲み込むように、喉を滑らせた珈琲はぬるく苦々しく、彼は眉を顰めた。

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