シャンパンの細かい泡を見た。僅かな金色の気泡が直接に瞼の裏に入り込んでくるような奇妙な感覚がするものだから、ロックオンは閉じようと必死になる脳の 信号を無理矢理に遮りなんとか視界を開こうとする。しかしそれはまた別の白い布でできた掌があって、その脳の命令を従順に守ろうと躍起になる。結局のとこ ろ顎を僅かに上げる事しか叶わなかった彼は、徐々にその絶望という形容詞の泡を瞼の闇から追い出して現実を見据えるための思考を始めた。何故こうなった。 何が起きた?彼の冷静な一部が囁くのは、お前がヘマをしたのだと。そして彼の脳の大部分は大慌てに騒いで、しかし腕などはもう捕らわれて動かないのでそれ を体現する事は不可能だった。
「お目覚めかな?眠り姫」
突然に顕れた声にロックオンはびくりと震えた。ゴーストのように出現が唐突だった。その反応を声の持ち主は敏感に拾い上げて、悪戯が成功した子供のように 笑い声を上げた。妙なほど明るい声だったから、ロックオンはその明るさには素直に喜べずに何も答えずに押し黙った。そもそも、体の全てが拘束されているこ の状態で安心も安寧も何もあったものではないからロックオンの反応は当然だった。だが、明るく社交的であろうその男はそれが不思議だというように「ジョー クだよ、笑いたまえ」とロックオンに理解しがたい要求をする。
「だんまりか。もしかして眠り姫ではなくて人魚姫かな?私はアレが好きではないからもしそうならご遠慮願いたいが」
「……」
「ここはユニオン軍の駐留所の地下だ。記憶はしっかりあるかな?君はソレスタルビーイングの構成員であり、実働部隊のMSガンダムのパイロット。何なら住 所まで諳んじて見せよう。この国は捕虜に関する法律は充実しているからね。君の安全は保障されていると言うわけだ」
よく喋る口は確かにユニオンに見られる発音だった。秘かに予感していたその可能性をずけずけと伝えられて、ロックオンは背中の裏がす、と冷めていくような 感触がした。最悪の状態ではないだろうか。気泡がまた脳裏を掠めた。明るい声は何の緩和剤にもならず、徒漠然とした不安と絶望を押し込められた視力に影を 落とすだけであった。
「頼むから声を聞かせてくれないか。空調はどうかな。私には少し熱いが、どうだろう」
首を傾げる気配がする。ただ綺麗な声と照れもなく放たれた歯が浮くような台詞だけが耳に届いて、こんな状況ではなかったら、それは心動かれやすい女性では ないにしても少しは聞き惚れていたであろうと思われた。気遣いのようなそれも、女性に対するそれのようで、まさかユニオンでは充実していると言う法律で捕 虜のエスコートが訓練の一環として組み込まれているわけではないだろうから、軍人として地位は高くても真面目な方ではないのかもしれなかった。
ゆっくりと、空気が動く気配がした。布擦れの音がほとんどしない。幽かに聞こえるのは均等な足音、自分の心臓の音。ロックオンは男の正体を悟る。
「…フラッグの…」
掠れた声しか出なかった。そのみっともなさに僅かに歯噛みし、吸い込んだ乾いた空気に咽が痙攣し、咳き込んだ。
「ご明察。何度目ましてかな?君とは」
「……覚えてないね」
「つれないな。私は全て覚えているというのに。君の銃を構える姿も、その弾の軌道さえも!君が撃ち殺した私の同僚の死に顔も全て覚えている。遺族の真っ黒 な喪服も鮮明にね。亡骸はひどくてね、顔など判別がつかないから死化粧をしなければとても遺族に見せられない状態だった。そうそう、君は全く面識のな い人間の葬式に出席したことはあるか?あれほど自分が滑稽になる瞬間はないね。顔も知らない人間の名前を呼んで、さも悲しげに眉を顰め、賛美歌を歌 う。涙を流しながら――」
「…やめろ」
どこまでも続きそうな言葉が、思わず出た掠れた呟きにぴたりと止んだ。そしてそのすぐ後、くすくすと笑いが毀れる。
「何故?全てこれは現実だよ。君だって判ってるんじゃないか」
笑い声が、ぐるぐるとロックオンの周りを歩いた。こつこつと床が鳴り、背後に気配を感じるたびにぞわりと背中が震える。後ろ手に縛られた腕の先にある拳を 握る。いつも皮に覆われていたむき出しの肌に爪が触れて、ロックオンはその違和に顔を歪める。
「君の手袋なら、我々が預かっているよ。何か武器でも隠していたら大変だからね。その辺は徹底させてもらった」
こつこつこつこつ、足音が這い回る。廻ったそれはまたまた背中に戻って、捻られた手首にそっと体温が触れた。
「きれいな手だ」
血管の、その底を探るような動きで指が手首の静脈の線をなぞった。そこからゆっくりと、強張った甲に移る。骨のつくり全てが曝け出されるような、嫌な動き だった。居心地悪さにロックオンは布の下で眉を顰める。男の指がよく磨がれた爪に触れた。狙撃手の命とも言える指先が、顔も判らぬ男の指の体温で湿る。
「真っ白で赤が似合う」
…人殺しの手だ。寒気に僅かに反らした首筋に囁きが落ちる。皮膚一枚に触れる唇も、血に暖められたナイフのようでロックオンは息を詰めた。安全は保障され ている、と嘯いた赤は、唾液も飲みことも出来ない喉に優しく、恋人にするように掠めて、捕らえた指は口腔に迎えられて舐られた。
「棺の重さを知ってるか。…空の棺ほど、重いものはないのだよ」
唾液が糸を引く。柔らかい肉に包まれたはずのそこは、引き千切られたようにひどく冷たく硬直した。

















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