オリーブ色のネオンが濡れたアスファルトに跳ね返って、おろしたての革靴は付着した泥とその反射光に不思議な色合いに輝いていていた。ホテルの、毛の長い 絨毯がその緑を吸い込んで久しく、元のただの黒になった革靴をロックオンはじっと見つめた。その足下のずっと先には濡れた足跡が続いて、広い窓ガラスの前 に立った男がにこやかな笑みを浮かべて彼を手招いた。
同じ顔でも、そこに浮かぶ表情はどこか違う。同じ螺旋の元に生まれたのに、どうして?それは昔からの疑問だった。
どうして、兄さんのケーキは少しだけ小さいの。どうして痛くても泣かないの。どうして、どうして?疑問で出来た山は離れて暮らすことになった今でも大きく なり続ける。いつまでも小さな子供のように疑問符ばかりを浮かべている。いつだって変わらないのだ、これは。例えばロックオンがどれだけ本を読もうと銃の 腕を上げようと、この兄に叶うことなどありえない。同じ生活を繰り返しているはずなのに、兄には彼に見えない何かが見えているようだった。そして、その博 識は小さな頃から彼を驚かせてただ尊敬させるのだった。
嫉妬などという感情は浮かばなかった。兄に対する感情でそれはすっぽりと抜けている、昔からずっと。反発も覚えない。ああ、この人は完璧なのだとただ感嘆 の吐息を洩らすだけ。そして幽かな疑問が、懐疑ではなくただ純粋な疑問が心の淵に降り積もる。
「考え事か?」
ぼんやりとした彼を、いつの間にか傍へ寄ってきた兄が笑った。遠い昔に庭で育てたメアリーローズの花びらに似た薄いいろの唇が、誰が見ても完璧な形を作っ ている。見蕩れるその笑みに憬れて真似た自分のそれは、完璧だろうかとロックオンは笑う度に時々思った。
「手袋、してないんだな」
伸びてきた指が、ロックオンの目に掛かった髪を摘んで除けた。一切の傷もない指が、そっと白い陰影を作った。それを辿るように、ロックオンの指、ただし、 黒い布に覆われた指は追いかけ、わざと軌道を外して兄の仕種を真似て頬に触れる。そこから伝わらない温度がなんとなく悲しくて目を伏せた。
伏せた視線が引き寄せられ、名前を呼ばれた。コードネームは教えたはずだったのに、敢えてこの兄はその名前を呼ばないのだった。棄てた名前を呼ぶ、その唇 が頬に触れていた手袋にそっと寄せられる。そしてゆっくりと、白い手がそれを包んだ。
「外していいか」
「…どうぞ」
他人行儀の了承に、兄は少しだけ眉を下げた。触れる所作は淀みなく、ロックオンの手は徐々に強張りを失くしていく。他人の手が自分の不可侵を犯していくの に、何故こうも安寧に浸れるのだろう。まるで、少しだけ足りなかったコップの水がいっぱいに満ちるような。完全な丸ができあがるような、そんな気をこの手 はさせるのだった。顕れた手を見て、兄が少しわらった。
「手入れはしてあるな」
「…アンタも」
「口が悪くなったか?」
「そうかな」
「そうだよ」
柔らかく肯いて、兄はロックオンの手首を引張った。唐突のことに、身体はあっさりと引力の方向へと投げ出されて白いシーツへと埋まった。小さく身体が跳ね る、それが面白いと兄は自分もそのベッドへと飛び込んでスプリングを揺らした。子供のようなそれに、二人は笑う。
「子供じゃないんだから」
「そうかな」
「そうだよ。でも、変わんないな」
完璧にすぎる兄は、こうして無邪気な行動を起こすことが間々あった。それが何となく嬉しくて、悪ノリしては両親に叱られるのはいつもロックオンの方であっ たが。兄は穏やかな笑みを浮かべたまま、また手を伸ばす。髪を掴んで、地肌に鼻を寄せて匂いを確かめた。ロックオンはされるがまま、その唇が額に、そして 睫を掠める瞬間を待っている。触れる体温も匂いも空気のように等しくて、ただ柔らかな感触がロックオンの表皮を包んだ。
「ニール」
棄てられた名前を呟いた。その声に、兄は瞼に寄せていた唇を緩めて「どうした?」と首を傾げる。
「ニール?」
「うん」
「…どっちが、」
どちらだっただろうか。瞬きをした彼に、穏やかな唇は何も答えない。真っ白なつくりもののような指が緑の眸を覆い、心の淵に積もった疑問にそっと息を吹き かける。そして静かに、眠りが彼を抱くのだった。










月にユダさまよりお借りしました









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