黒といってもいい程の深い新緑の隙間を縫って、白い青空が垂直に丸い池へと差し込んでくる。
人形を抱えた少女は金色の髪に溶けそうな薄い緑でそれを眩しそうに見上げる。光に弱い虹彩に、その色は優しかった。風は穏やかに凪いでいる。軽い広葉樹の 葉のように浮かぶ小舟の上で自分とお揃いの色の髪を撫ぜ、オールを 漕ぐ双子の兄の片割れを省みれば、その視線に気付いて僅かに眸が光る。
「寒くない?」
「うん。だいじょうぶよ」
体の弱い少女を何かと気にかける少年の、何度目かになるその言葉に肯けば、頭に優しい体温が触れた。もう一人の兄は、必死に見えない池の底を覗こうとして いた筈なのだがいつの間にかそれに飽きたらしく次は妹を人形にして退屈を 紛らわすことにしたらしい。金糸を梳いて、指に絡ませて僅かな光に晒す。真っ白な肌を金色の光が輪になって縛る。さながら、この二人の持つ揃いの指輪のよ うであった。それを思ったのは、オールを漕ぐ彼もそうであったようで光る指を眩しそうに見つめる。
「指輪ね」
「そうだよ。これと、お揃い」
常に心臓を守るように押し込められた金色の輪を翳せば、僅かな陽と緑いろの光を浴びて輝いた。その視線の中に僅かな喜色が浮かべ、ばら色の唇がやわらかく 指輪を作る彼の名前を呼ぶ。
「――…」
「きゃっ」
呼ばれた名前は、唐突に訪れた風に吹き飛ばされてしまう。ひどく沈黙した平面の湖面が、その悪戯ににわかにさわがしくなった。がたり、と地が不安定になっ て、少女のスカートが翻った。大きく揺れたボードから落ちないようにしがみついていた兄は、その湖面に視線を落として「あ」と声を上げた。それを辿った薄 い緑が見開かれる。
「わたしの人形!」
先程まで腕の中に大人しくしていた人形が、ざわついた水面の上に漂っている。突風に攫われそうになったのは髪だけではなかったらしく、水の表面に浮かぶそ れはまるで季節を間違えて咲いた睡蓮のようだった。少女は小さく叫んで、水面にその腕を伸ばす。花柄のコットンの袖が一度水面を滑り、幼い指先が必死に 伸ばされるが、また吹き始める風は無常にそれを遠ざけた。
「兄さん、こいで」
涙が浮かんだ眸が兄を見つめた。振り向いた兄は風のてのひらが連れて行くその花びらを見つめている。そして、ゆっくりと、オールを漕いだ。風の吹く方向に 向かってゆっくりと小舟は進んでいく。 しかし鬼ごっこを愉しむように人形は捕まらないよ、と笑いながらそれよりも早くすい、と流れて手を追う手を逃れる。ふ、と息を吐いてオールを漕ぐ手を止め た少年は濡れた新緑を見 る。そして首を振った。
「風が出てきたから、もう戻ろう」
「でもっ」
「大丈夫。ほら、もう少しで岸に泳ぎ着くよ」
三対の眸が、葦が茂る岸にそっと人形がたどり着くのを見ている。背の高い茎に引っかかり人形が動くのをやめた所で、また小船は動き始めた。名残惜しく見つ める景色の中で人形の稚拙な手が少女にばいばい、と手を振っていた。だからそれが少し悲しくて、少女は乾き始めた眸にまた水を浮かべるのだけれど、それに 気付いた兄がそっと頭を抱いてその天辺にキスをしたのでそれが零れて湖面の一部になることはなかった。
「兄さん…」
「大丈夫だよ。後で俺たちが取ってきてあげるから」
同意を求めて微笑んだ少年を、同じ容の少年は笑わなかった。じっと遠くを見つめて沈黙した。鳥も鳴かない。風さえも、その静寂に遠慮して口を閉ざすから、 全くの無音の中でオールを漕ぐきしんだ木の音と、船底を舐める水の音だけが辺りを包んでいる。
「兄さんっ」
切磋されて腐った色を貼り付けた埠頭に小花の踊るレースが少年の手を借りて降り立つ。沈黙を厭って呼んだその言葉は、しかし肉のはじけるような音によって 途中で鋭い悲鳴になった。少年の青白い片頬がじわりと赤く腫れる。頬を打たれた少年は驚いたように目を丸くした後、静かに見つめるその眸を見つけ、やがて 唇を噛む。ごめん、と呟いた。小さな謝罪に、確認するように肯いた少年は口元を押さえて成り行きを凝視していた少女を振り向いた。
「もう、中へ戻りなさい。母さんが心配している」
「わ、たし…」
「人形は取ってきてあげる。早くお戻り」
白い指が赤く腫れた頬を撫ぜる。風がまた動き始め、それに煽られるように浮いた指は、ぱたり、と左胸に降り立ち、白いブラウスに僅かに爪を立てる。
「お前もね」
「兄さん、ごめん…」
「判ってる」
小さな背中が粘土の中に消えていく。水を含むぬかるんだ土に沈むその小さな革靴を汚したのは、紛れもなく自分なのだ。遠くに浮かぶ人形と、湖の中に沈んだ 金色の指輪を思い浮かべて少年の口元が幽かに笑んだ。






月にユダさまよりお借りしました










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